RE.によると、±0に新たなラインナップが加わったらしい(Nightnoise::doblog でも)。あいかわらずスッキリしていて美しい印象…だけど。(MUJIのもちょっと似てる? DESIGN HUB「MUJI CDラジオ」)
ちょっと、気になったのは後半の"Sole Bag"、"Mesh Tarp Tote Bag""Petri Dish AshTray""Chewing Gum Measure"。
共通するのは、「他のシチュエーションで、既に馴染みのあるモノを、別のコンテキストで使ってみました」っていうコンセプト。これってマルセル・デュシャンまでさかのぼる(冗談です(笑))モダンアートの古典的アルゴリズムの一つなんじゃないかと。しかしこうも連続して並べられると、そしてそれがどれも商品として売られるとすると、まさにハイ・アートが発見したアルゴリズム(ある種の脳内アルゴリズムの刺激パターン)が「通俗的」アートに、そして最終的はコンスーマープロダクト・デザインに適用されて、消費されていく、という例を見ているみたいだ。
±0で扱っている製品は、ほとんどマーケット的に成熟してしまっていて、そこにいかにデザインで付加価値を与えるかってコトなんだと思うんだけど、分析するなら(えらそうだな>オレ)それは、
・ミニマル
・目新しい素材(加工)
・ストーリー
そして、今回目立ってきた
・(上記アルゴリズムを適用したような)アートなカンジ
と、こういうトコロだろう。上の3つは近頃のデザイン家電ブーム、デザイナーズ家具ブームにも共通するトレンドっぽい。
「ミニマル」は、「不要な機能はいらない」や「機能(や使われ方)が形を決める」みたいな考え方で、それ自体は新しくはない。テクノロジーがオーバーシュートするとこういうトレンドになるんだろう。
「目新しい素材」は、まさに「新奇な果実」として成熟商品を新しく見せる刺激という部分と、素材および素材加工技術の進歩が重なったんだなぁ。
「ストーリー」はいつの時代も成熟商品にはあるものだけど思うけど、デザイナー本人や周辺がやたらデザインを語るようになって今やマーケティング手法として確立されつつあるカンジだ。
で、「アートなカンジ」っていうのが新しめのトレンドらしい。
で、RCAのDesignProductsはその総本山みたいなモノ、って気がしてきた。要は成熟しきったカテゴリーの製品をさらに差異化するための「アート的アルゴリズム」の適用。(教授陣はどうか知らないけど)少なくとも学生本人はそんな意識はなく、誠実に「いいデザイン」を追求してるんだけど、気がつくとのその方向が「アートの香りがするプロダクト」、「アートの香りで売るプロダクト」にうまく導かれてる気がする。
上の「他のシチュエーションで、既に馴染みのあるモノを、別のコンテキストで使ってみました」アルゴリズムは、人の感覚(認知)をちょっとズラして刺激する、定番アルゴリズムの一つで、今回の Interim-Show でもチラホラ見かける。例えば、肉のパッケージに入ったミルクとか…って、オレやんかっ!!(笑)
しかし、この「本人はオリジナルなつもりだけど、結局、環境(社会)がデザインのトレンドを決めてる」っていうのは、「欲望のオブジェ」のテーマでもあって、納得させられる部分も多い。
デザイン理論がまずしいのは、おおむねのところ、デザインをアートと混同し、その結果、製作の産物を美術作品と見なしてきたことによる。このような見方は、同じ美術館で製造物が絵画や彫刻といっしょに蒐集や展示がなされたり、デザインについて書きつらねられたりすることによって育まれてきた。ことほどさように、最近のある本でも、「インダストリアル・デザインこそ二〇世紀のアートだ」といった言説が、アートとデザインのあらゆる違いを意図的にぼかそうとしているように思われるのである。 |
そう、確かに、「意図的」な部分を感じる。アーティスト然としたデザイナー、アート作品ような紹介…。特にイギリスが、生産技術も、素材技術も、特別に優れているとは言い難い(失礼)のに、プロダクトデザインで今の地位を築いて、さらにそれを維持しているのは、「意図的に」そういうのを国策としてやってるんじゃないかな、と思う(ウマいのかも知れないけど)。
一方、日本では深澤直人がアフォーダンス絶賛(「デザインの生態学」)
まず「情報」という言葉の定義が違う。「環境」という言葉の定義が違う。そして主観と客観という位置の定義が違う。私はギブソンが作った「アフォーダンス」という造語の意味を佐々木正人という生態心理学者の解析と解説によって知ってきた。だから私がデザインやアートと関係づけて考えることができる「アフォーダンス」は佐々木正人と私というフィルターを通過しているので、すでにその意味のオリジナリティを問えば屈折してしまっているかもしれない。しかしあえて私は「アフォーダンス」はアートを越えていると言いたいくらいである。アーティスト、デザイナー、ミュージシャン、書道家、ダンサー、華道家、それらの名はその表現媒体によってカテゴリー化されている。しかしそのもとをなしている感受性を、環境の中にある法則として定義したのが「アフォーダンス」なのである。 |
しかし「欲望のオブジェ」のアドリアン・フォーティに言わせるとこうだ
二〇世紀のデザインがたまたまユートピア的イメージに支配されてきたとすれば、一八世紀の製造業者は、革新への抵抗を克服しようとする努力の中で古風なモデルに依存するところが大きかった。デザインはわれわれが現実として受け取っているものを不可避的に偽装したり改変したりする活動だ、というと現在のデザインに関する多くの常識、とりわけ、製品の外観はその用途の直接的な表現であるべきだ、とする信念、つまり、「形態は機能に従う」というアフォリズムにあらわされているような見解にはなじまない。この議論のいきつくところは、用途が同じならすべて同じものであるべきだ、ということになってしまうけれど、陶磁史なら陶磁史をちょっとひもとけばわかるとおり、実際にはそんなことはない。 |
もちろんここでの「アフォリズム」は深澤直人&佐々木正人の「アフォーダンス」とは同じじゃないけど、彼の論旨はあんまり変わらないんじゃないかな。
そしてフォーティは、
どんなデザインも、オブジェがその購買対象とするひとびとの共通にいだくさまざまな観念を体現していなければ、有効ではない。…(略)…デザインを純粋に個人の創造的行為としてあらわすことは、一時的にデザイナーの重要性を高めはしても、つまるところ、デザインを社会のはたらきのなかでその役目から切り離すことによっておとしめることにしかならない。 |
とする。
深澤直人がデザイナーと同列に並べている、「ミュージシャン、書道家、ダンサー、華道家」を見ても、どうも彼はアートとデザイン、アーティストとデザイナーを混同している(?)、もしくは意図的にぼかしている(?)ようにも見える。フォーティにしてみれば、この「アーティスト然としたデザイナー」が生み出す「アート・テイストのデザイン」も、購買者の観念を体現したもので、デザイナー本人が思うほどオリジナルなものじゃない、ってコトなんだろう。う〜ん、そうなのかも。「オリジナリティはむしろ細部に宿る」のかも、とか(「デザインの再生『僕のデザインのテーマは「緻密」。デザインする時、発想に1/3、その全体の空気感を決めるのに1/3、緻密にディティールに手をいれるのに1/3、と与えられた時間を配分する。』」)。
しかし、まずはこうしてイマのデザインのトレンドを僕なりにマクロに俯瞰した(というにはサンプル少なすぎっ!>オレ)ところで、「次」はなんだろ? 明日はどっちだ?
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しかし、ホントに読み応えのある「欲望のオブジェ」は必読(再)
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デザインの生態学―新しいデザインの教科書 後藤 武 佐々木 正人 深澤 直人 東京書籍 2004-04 売り上げランキング 6,391 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
しかし、こういうコト書くと、「深澤直人デザイン」が嫌いなの?と思われそうだけど、僕の中ではかなりポジティブ。でも、「次」を考えるには「イマ」を分析する必要があるし、深澤直人は「イマ」の日本を代表するプロダクトデザイナーの一人だと思うので(てゆか、あんまり大勢知らない…(苦笑))。
(しかし、デザイナーでもなく、なんの実績もなく、いきなり「次」を狙うなんて、すっごい無茶苦茶だな…>オレ)
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