JMのテーマは今のトコロ漠然と、"Creativity in Daily life"なんだけど、これをざっくりと
・sampling(素材選び)
・re-composition(再編集)
・collaboration(共同作業)
のサイクルかなぁ、と。で、まずは最初の"sampling"について考えようと…。
(とりあえず知的所有権の問題をおいておくと、)無数の素材がインターネットで手に入るし、これまでネットがカバーしきれていなかった既存の書物みたいなトコロにも手がつき始めたし、メディアからも大量に流れてくる。HDDレコーダの中もいっぱい、デジカメ写真もリッピングしたMP3ファイルも貯まる一方だし、ブログ始めたりすると、アイデアもtextのカタチで貯まり始める。…と、なると後は量じゃなくってどうやってこれを個人が扱うか、というトコロがポイントかと(= Personal Contents Management?)。で、サーチエンジンが脚光を浴びる世の中なんだと思うけど、ココを「テクノロジーでなにができるか」ではなくて、もう一歩ヒトの方に近づいてみて、どうデザインできるか?というのが、ここでのテーマ。
そこで、少し飛躍するけど面白いのが下條先生の「<意識>とは何だろうか」 (ヒヤクしすぎかっ?>オレ)
-記憶-環境という外部装置 …(略)…ここで注意したいのは、脳の機能と環境との相互作用そのものが、私たちにとって気づきにくいものだということ。その理由を先取りしていえば、環境そのものが実は認知システムの一部、外部装置だからです。 |
なるほど。この後、紹介されるJ・コートルの「記憶は嘘をつく」からの「白い手袋」の話(実際にはなかったかもしれないし、見たこともないんだけど、著者コートルの中に鮮明に残るおじいさんの「白い手袋」の記憶の話)が面白い、そして
それから(ここから先はコートル自身はいっていませんが)、祖母にあったり、クラリネットを見たりするたびに祖父の白い手袋を思い出すとすれば、祖母やクラリネットは「白い手袋」の記憶装置の一部、それも強力で不可欠な一部だ、といえないこともない。このように、手袋は記憶の頭の中の一部に「痕跡」として孤立して存在しているものではなく、周囲の環境、本人の来歴、その他あらゆるものにもたれかかるかたちで、成り立っているのです。 それどころか、むしろこの「もたれかかる」ありようそのものが、記憶の唯一可能なあり方なのです。何かのコンテンツ(内容)があって、それが環境や経歴にもたれかかるのではなく、もたれかかりそのものが、記憶のコンテンツなのです。 |
と、続く。
そして、
進化する認知科学 …(略)…これに対して、もっとも新しいエマージェンティスト(創発主義者)の立場では、これまで認知の周辺にすぎなかった身体や環境世界が、知性の「創発」を可能にする外部装置として、重要な意味を帯びはじめます。そして先にも論じたように、その境目もより連続的なものとなります。ネオロボティクスや一部の認知哲学が、この立場の推進者です。 エマージェンティストの立場は、記憶、問題解決、認知の分散性などについては、コネクショニストの伝統を受け継ぎながらも、それを大きく超え出ています。コネクショニストたちが認知をあくまでも脳内に限定しようとしたのに対して、身体と環境世界の役割を強調し、それらの間の本質的なダイナミクスを通して問題が解決されると考えます。身体は環境とともに、認知の切り離せないループであり、知性の積極的な資源なのです。 |
と。面白い。
「身体は環境とともに」、つまり「環境」は身体とともに、認知のループ、知性の資源。そういう目で環境としてのプロダクトを考えてみよう。PersonalCMSといっても、せっせと情報を入力して、ちまちまと管理するのは(それも知的活動の両輪の一方だと思うけど)、このループのかなり外側よりだよね。自分が意識して外部装置を使っているっていう意味で。
で、JMは微妙に内側を狙いたい。ベタな例だと、無意識に(ってことはないけど、あたかも無意識のように。ちなみにこのクリスマスにヨーロッパで展開されてたSONYのデジカメCMのキャッチコピーが(たしか)"Don't Think. Shoot"。ブルース・リーだっけ?)バシバシ撮りまくったケイタイデジカメ写真の画像が、コートルのクラリネットのように(でも実は巧妙に仕組まれた(デザインされた)自然さで)たまに目に触れて、記憶のループを(できれば心地よく)刺激する。これを長く蓄積すれば、すっかり意識からは消えていた10年前にいた場所の映像を、ふとしたきっかけで(でも実は仕組まれて(デザインされて))目にして、インスピレーションを生む、とか。検索語を自分で入力するんじゃなくて、例えば去年の日記の中からコトバを抽出して、忘れたころに、さりげなく「そうだった。オレってこうだった」って気づかせてくれる…とか(なんだ、Memoriumに近いかも?>オレ)。
で、これが、「記憶装置」としての「環境」、としてのプロダクト、Smart Furniture 〜認知のループ、知性の資源。
自分の記憶、自分の人生をもっと深く味わうことができたら、そして意識が見失ってしまったものを環境がうまくサポートしてくれたら、もっとクリエイティブになれるんじゃないか、と…。
ま、実際、最初にやろうとしてるのはテーブルにディスプレイ埋め込んだような、そこでデジカメ写真が見られるような、あまりにも、あまりにもベタな見かけのモノになりそうだけど、コンセプトは志高く、ね。
「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤
下條 信輔
で、これって「アフォーダンス」の話を思いださせるので、ちらっと読み返したけどあいかわらず内容の薄い(でも「<意識>…」より値段は高い! 今、気づいた)佐々木正人「アフォーダンス-新しい認知の理論」
アフォーダンス-新しい認知の理論
佐々木 正人
もっといい本ないのかなぁ。
で、読んでないけど…。
記憶は嘘をつく
ジョン コートル John Kotre 石山 鈴子
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